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黒嵜一英さん
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黒嵜一英さん
黒嵜敏男ちゃん(左)と兄の一英さん=1942(昭和17)年ごろ、神戸市内
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黒嵜敏男ちゃん(左)と兄の一英さん=1942(昭和17)年ごろ、神戸市内

■兵庫県加古川市 黒嵜一英さん(87)

 「戦争に勝ったら、神戸に戻れるから頑張ろうな」

 集団疎開していた弟の敏男と交わした言葉は、かないませんでした。4歳下の弟は、栄養失調による腸炎で命を落としました。

 まだ7歳でした。

 1945(昭和20)年9月19日のことです。既に戦争は終わり、あと少しで神戸に帰れたのに…。

 私がお世話になったのは東神吉村(現兵庫県加古川市東神吉町)の妙願寺ですが、弟はそこから歩いて2時間かかる別の寺に疎開していました。

 弟は小柄で、引っ込み思案な子でした。何回か会いに行き、親にもらった大豆のいり菓子を、一緒に食べたこともあります。

 弟の容体悪化を知り、走って駆け付けましたが、庫裏に寝かされた弟は、もう意識がありませんでした。父母も間もなく到着しましたが、弟は一言も発しないまま、2日後に息を引き取りました。

 たった一人の兄弟です。亡きがらに向かって、「お父さんとお母さんの面倒は俺が見るからな」と泣きながら語り掛けました。

 学童疎開は、米軍の空襲を避けるために国の政策として始まり、都市部の子どもを農山漁村部で生活させた。個人で親戚を頼る「縁故疎開」と、学校単位の「集団疎開」があり、集団疎開は44(同19)年8月から国民学校初等科(現在の小学校)3~6年生が出発。45年3月に1、2年生も対象となった。

 神戸から疎開先に出発する時は、両親が駅まで見送りに来てくれました。母親は「戦争に勝つまで元気で頑張ってね」と話しながら、涙を流していました。

 汽車には子どもが30人くらいいましたが、弱音を吐く子はいませんでした。疎開することは、「小国民」の義務だったのです。

 都会育ちでしたから、東神吉村の自然豊かな環境は新鮮でした。寺近くの山裾を開墾し、サツマイモやウリを収穫しました。

 食事は、麦や大豆のご飯と、野菜の煮付けやみそ汁です。私の所は食べ物に不自由はしませんでしたが、弟はわがままを言って食べなかったのかもしれません。

 両親との面会日は、月に1回ほどありました。本堂の階段に皆と並んで座り、目を皿のようにして、加古川の土手を歩いてくる人の中から父母を探しました。

 見つけた時はうれしかったですね。やっぱり、親元から離れた生活は寂しかったですから。両親といる時は、苦しい生活を忘れました。両親はお土産として、カズノコやシイタケの煮物などを渡してくれました。

 45年12月、弟の遺骨を胸に抱き、両親と神戸に戻りました。自宅は空襲で焼夷(しょうい)弾が当たりましたが、焼失は免れていました。当時の神戸市長が自宅に来て、弟が亡くなったことに、「申し訳ないことをしました」と声を掛けてくれました。

 弟は生きていれば、83歳になります。毎年、終戦の日に続いて命日が来るたびに、その短い一生に思いをはせます。(聞き手・笠原次郎)

【くろさき・かずひで】1933(昭和8)年、神戸市生田区(現中央区)生まれ。諏訪山国民学校5年時に集団疎開した。高校卒業後、2年半の結核治療を経て、現在の三菱重工業神戸造船所に入社。研究所勤務が長く、定年まで勤めた。

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