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旧阪急花屋敷駅前から宝塚・長尾台にかけて走った日本初の無軌道電車(川西市史より)
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旧阪急花屋敷駅前から宝塚・長尾台にかけて走った日本初の無軌道電車(川西市史より)
田中数之助が建てた「新花屋敷温泉」の全景(川西市史より)
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田中数之助が建てた「新花屋敷温泉」の全景(川西市史より)
無軌道電車の出発地点だった場所。現在は阪急バスのバス停があるだけで、当時を思わせるものは残っていない=川西市花屋敷2
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無軌道電車の出発地点だった場所。現在は阪急バスのバス停があるだけで、当時を思わせるものは残っていない=川西市花屋敷2
無軌道電車の終着地点だった場所。当時を思わせるものは見当たらない=宝塚市長尾台1
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無軌道電車の終着地点だった場所。当時を思わせるものは見当たらない=宝塚市長尾台1
神戸新聞NEXT
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 始点は、阪急雲雀丘花屋敷駅を北に出て東に少し歩いた兵庫県川西市花屋敷2、阪急バスの「花屋敷」停留所付近。そこから北西へ、現代の車でも馬力が必要な急勾配の坂を上り、住宅街をかき分けるように宝塚市は長尾台地区へと向かう。やがて見えてくる同市立長尾台小学校をわずかに過ぎた辺りが終点。2市の市境を通る1キロあまりの道に、かつて“日本初”が走っていた。架線から電力を得て、線路なき道を行く「無軌道電車」だ。

 トロリーバスとも言われる無軌道電車。大阪の呉服商、田中数之助がこの地に電車路線を開業したのは、1928(昭和3)年8月のことだった。既に梅田-宝塚間に阪急が開通し、花屋敷駅と雲雀丘駅がまだ別々の駅だった頃。辺りは大阪の“ベッドタウン”として住宅開発が進んでいた。

 田中は宅地開発とともに、満願寺の奥、現在の宝塚市ふじガ丘一帯に明治期に見つかった温泉「新花屋敷温泉」の施設を建設。遊園地や動物園も併設した。

 「温泉にレストランがあって、そこのカレーを食べるのが楽しみだった」「(無軌道電車を)通学に使った」。そんな地元の人の声を聞いたのは、ふじガ丘自治会で初代会長を務めた吉成友介さん(84)。20年ほど前、自治会活動の一環で新花屋敷温泉や無軌道電車について調べた際に耳にした。温泉地への交通手段に、田中は坂道に強いとされた無軌道電車を選んだ。

 全長約5・5メートルのワインレッド色の車体。定員は30人ほど。タイヤは空気が入っていない「ソリッドゴム」を使用していたという。その車両を最大2両つなぎ、片道10銭で行楽客らを運んだ。始点ではターンテーブルで方向転換し、終点はループ上に周回したという。道中には鉄柱を立てて架線を引き、阪急から電気をもらった。

 だが今や、その存在を知る人は少ない。「私が20代の頃は『乗ったことがある』と話していた人もいたが…。その程度です」とは、歴史に詳しい川西市文化財資料館の岡野慶隆さん(67)。それもそのはず。電車はわずか3年半で運行を終えたのだ。

 固いタイヤは故障が多く、終点から温泉施設までさらに歩く必要があるなどし、乗客は減っていったという。しかも時代は世界大恐慌。経営は行き詰まり、田中は自ら命を絶ったといわれる。路線を延ばし、能勢電鉄の多田駅までつなぐ遠大な計画は、ついぞ実現しなかった。

 無軌道電車が通った辺りには宅地がそろい、昭和40年代に入ると、ふじガ丘も開発されていった。その頃に移り住んだ吉成さんも、自治会で調べ始めるまでは温泉や電車の存在を知らなかったという。「電車がもう少し長い間走っていればまた違ったんやろうね」

 「花屋敷」の停留所では、乗客がバスを待ち、近隣に住む小学生はふざけ合いながら下校する。様変わりする街の変化についていけなかった企業家の壮大な夢。その跡をたどるように、バスが坂道をゆっくりと上っていく。(大盛周平)

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